セフレメンタル南向き
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セフレ関係はたえず流動的で固定されることがない

友人でもなく恋人でもないという曖昧な中間地点で、「肉体関係のみ」というこちらはまったく曖昧さがないように思われる明確でクリアな基準によって成立する男女の特殊な人間関係。それがセフレです。

このセフレという関係性は、言うまでもありませんが「セックスをするだけの人間関係」なのであって、基本的には、それ以上でもそれ以下でもありません。これは「セフレの原則」だと言い切ってよいでしょう。

もちろん、セフレ関係を築いている男女をつぶさに具体的に見ていくことが可能であれば、「セックスをするだけ」「肉体関係のみ」という割り切った乾いた関係から、「友人」や「恋人」と呼ばれる関係のほうへと歩み寄っていくケース、このセフレの原則を破るようなケースが度々見出されてしまうのは、事実でもあります。

肉体関係のみというセフレの原則

セフレから始まった関係が「友人」や「恋人」という関係に移行すれば、彼らの関係はすでにセフレではなく、「友人」あるいは「恋人」です。「友人」や「恋人」たちに「肉体関係のみ」というセフレの原則は必要ありません。

もし、「友人」や「恋人」に移行できなかったとした場合、その相手とは「友人」にも「恋人」にもなれず、またセフレとしての関係性も失うことになるでしょう。セフレの原則から外れたのですから、それは当然のことと言えます。

しかし、一人のセフレを失ったとしても、もし今後もセフレを作ろうと志向するのであれば、「肉体関係のみ」というセフレの原則は、再びその人のもとへと帰ってきます。

セフレの原則は、セフレの原則を一度でも裏切ったからといって、その原則を破った人間に二度とセフレを作ることを禁じるということを命じるような厳しい掟ではありません。

セフレづくりは何度でも繰り返し挑戦できるのですし、セフレの原則を何回裏切ったところで、それが裁かれて行動が制限されるということもありません。

セフレの原則を破ることについて

セフレの原則を破ったことによって罰が与えられるとすれば、それは自分がセフレの原則を破り、セフレの相手がセフレの原則を守っているような場合に与えられることになります。

その罰は極めてシンプルかつ軽度なもので、「セフレの原則にのっとって、二人のセフレ関係を解消する」という罰になるでしょう。

『肉体関係のみ』という原則にのっとって出会い、セックスだけをする関係を継続させていたのに、それでは話が違うではないか、原則に忠実ではないではないか」というのが、依然としてセフレの原則を守っている相手からの違反者に対する返答ということになるでしょう。これは正当な返答であると思います。

セックスをしているうちに相手に情を抱いてしまい、「肉体関係のみ」のセフレ特有の即物的で殺伐としたあり方では満足できなくなるタイプ、あるいは、「セックス」を踏み台にして「恋人」などの「セフレ」ではない関係に移行させることを(意識的であれ無意識的であれ)はじめから念頭に置いて行動していたタイプは、セフレの原則を破りやすい傾向があります。

セフレという人間関係が、肉体という繋ぎ目だけを頼りにして、つねに中間地点の曖昧さで漂う人間関係である以上、その関係性はつねに流動的であり固定されるということが決してありません。

流動的な人間関係であるセフレは関係の持続を目指さない

たえず流動的であるという状態に耐えられる。どこにも固定されずに漂い続けることに抵抗がない。こういった態度は、ある種の「適正」だけが可能にするものです。これらの「適正」を充分に持ち、また徹底的にその態度を貫くというのは、なかなか容易なことではありません。

限りなく流動的であることに耐えられない場合、人は何かしらの固定にすがります。その固定に対する希求は、最終的には「家庭」という地点に到達することになるでしょう。

それは完全なる固定ではないのですが、曖昧な関係に比べるとやはりかなり固定的な関係であることは間違いありません。

セフレの流動性は論外であるにしても、「友人」や「恋人」の移ろいやすさに比べた場合でも、「家」というものはかなり強固な固定性を持っています。

「家」のなかでも「親子」や「兄弟」などの「血縁」ということになれば、その固定は、「夫婦」以上にいよいよ強固なものになります。「夫婦」が離婚するのが「親子」や「兄弟」との絶縁より簡単なのは、その人間関係の固定のつなぎめに「血」が混じっていないからでしょう。

一方で、親子、兄弟よりも遠のいていく「親族」というものは、一応は「血」によって繋がっているけれども、あまり固定的にはならず、その固定は多くの場合「友人」や「恋人」、および「夫婦」との関係を下回る傾向があります。

セフレという人間関係は、「家」に代表されるような固定された人間関係の反対側を漂うものです。そしてそれは、「友人」や「恋人」などの、「家」という固定の外側へと逃れていくやや流動的な移行であると同時に、半固定的な関係を要求する持続目的の人間関係の「危うい隣人」でもあります。

セフレという人間関係は孤独である

セフレという流動的なあり方は、「家」などの厳密な固定的関係にとっては脅威の異端者であり、「友人」や「恋人」たちのようなゆるい固定的関係にとっては、ときおり魅力的に感じられると同時に自分たちの落ち着いた関係を壊しかねない、あるいは、無化しかねない警戒すべきあり方だということになるでしょう。

決して固定されることがない曖昧な中間地点を流動的にさまよいつづけることが、その適正を持たない人間にとっては容易ではない、ということは先程触れたとおりです。

セフレという関係を求めている人間が、「肉体関係のみ」というセフレの原則を破って「友人」や「恋人」のようなセフレに比べるとある程度固定された、位置が定めやすい持続可能な場所になんとか落ち着こうとする、あるいは、セフレという決して位置が確定されることがない人間関係に空虚さのようなものを感じてふいにセフレづくりをやめてしまう、というのは、ある意味では当然であるともいえます。

曖昧な中間地点を流動的にさまよう適正がない人間にとって、どこまでも流動的であり自分の位置が絶対に定まらないという状況は、苦しみであるからです。

「肉体関係のみ」だけで成立するセックスによる人間関係は、最初はバカンスのように楽しいかも知れませんが、もし、「それだけ」が続く場合、いつまでも定まらない自分の位置に不安を抱くことにもなるでしょう。

セフレという人間関係のその根本的な性質だけを見る場合、その関係性の性質は「孤独」です。そこにはただ「セックス」だけがあって、いっときの快楽が過ぎ去ったあとは一人になって取り残される。その反復こそが、セフレという人間関係の避け得ない性質でしょう。

セフレ以外の固定的な関係は人が抱えている本来の孤独をごまかす

しかし、セフレ適正のある人間は、ここで、いや、これはセフレだけの孤独ではないのだ、ということを知りながら断言することができるタイプであるといえます。

「友人、恋人、家族、国家などにいくら位置を見出して自分を一つの位置に固定したつもりになっていても、その先でも必ずセフレ同士でセックスをしたあとの孤独が待ち受けているのだ、それが見えにくくされていてごまかされているだけであり、固定性があるふうになっているだけで、どこまでいっても人はセフレとのセックス後の世界を孤独に生きなければならないのだ」というふうに割り切って考えることができる。これがセフレ適正のある人間です。

一方で、自分の位置をすでに固定させたかに見える妻帯者、子持ち、恋人がいるような人間たちが、セフレという関係に心を惹かれ、ちょっとした火遊びのようにセフレを探し始めることがあります。

このとき、彼らは「流動的であること」に徹底する適正はそれほどないにも関わらず、自分をある特定の位置に固定してしまったことの窮屈さには限界を感じており、自ら選んだ固定による窮屈さからセフレとのセックスを通して一時的に逃れようとしているのではないでしょうか。

もし、自分の位置を(それがまやかしであれ)固定することによってすべての問題が解決されるのであれば、なにも、わざわざ流動的で不確かな固定を拒むような場所へと自分の身を運ぶことになるセフレなどという人間関係を求める必要はありません。

これは性欲の問題でしょうか。性欲を満たすために、なぜ自分の位置を暫定的に決定させた人間がオナニーをするのでもなく、パートナーに頼るでもなく、(それが男性であれば)風俗を利用するのでもなくセフレを選択するのか、ということを考えていくと、どうも、「肉体関係のみ」で成立するセフレを作る、という営みは性欲だけに動機を限定された行動ではないように思われてきます。

性欲の解消だけがセフレづくりの動機なのか

「友達」でもなく「恋人」でもない曖昧な中間地点をさまよう、というこの場、「固定されない流動性」のただなかに身を置くということの魅惑こそが、実は、単純な性欲解消という目的以上に人をセフレという人間関係へと向かわせているのではないかと私は考えています。

セフレのような、自分を決してどこにも固定しない流動的な場に自分を漂わせつづけるのと同じくらい、「家」などに代表される自分をつねに同じ位置に固定しつづける場に身を置くということは、その極端のさなかにおいて、人に何かしらの不安を与えるのではないでしょうか。

一見すると自分を永遠に一つの位置に固定するかのように思われていた明確な関係性というものは、実は「まやかしの固定」でしかないのではないか、ということを、徹底的な流動性を持ちながら曖昧な地点をさまようことを余儀なくされるセフレという割り切った人間関係は浮き彫りにするように思われます。

セフレという人間関係が、その関係の維持が難しく、つねに相手をとっかえひっかえして対象を変え続けなければならない(変え続けることができる)のは、その原則が「肉体関係のみ」という明確な基準だけで成立しているからであって、それ以上のことをお互いに要求しないという「しばり」の少なさゆえであるということができます。

ある程度固定的で維持可能な関係は関係は、その維持のために、何かしらの「しばり」を設定してお互いを引き止めなければいけません。その「しばり」は、「肉体関係のみ」というような明確な基準ではなく、「気持ち」に代表されるような、セフレの場合と対照的に、曖昧な基準です。

固定的関係への逃避と、流動的関係への逃避

たとえば、「恋人」たちが自分たちの別れ話などのさいにグズグズと話を引き伸ばすのは、その固定化された関係を成立させていたものが曖昧であり、「肉体関係のみ」という明確さを持たなかったからであるといえるでしょう。

「肉体関係のみ」というセフレにおけるような明確な基準がないために、セフレ以外の人間関係においては、「固定は窮屈である」という問題をなるべく見ないようにしながら、曖昧な基準を出しあって話しあい、なんとか固定された関係を維持しようとする。そのような営みが日夜繰り広げられ、人々は離れたり結合したりします。それは「愛」というようなとらえようのない曖昧な言葉で語られることもあるでしょう。

しかし、別れの理由はどのような議論がかわされたとしても、結局のところは「愛」の問題ではなくて、突き詰めていくと「固定からの逃避」という地点に落ち着くのではないか、と思われます。

その「固定からの逃避」は、セフレ関係における終焉の理由である「肉体関係以上の曖昧な感情を要求されたから」という「固定の要求」と対応しているといえます。

セフレ関係を不安なしに存分に楽しみたいのであれば、まやかしの固定の道をきっぱりと諦めて、たえず流動的であることを徹底的に引き受けるしかありません。

そこを見据えれば、セフレとのセックスは相手を入れ替えながら果てしなく継続させていくことが可能です。それは、特定の人間との関係を長く維持していくのと同程度に難しく険しい営みであるでしょう。